見田宗介(2012)『現代社会はどこに向かうか ≪生きるリアリティの崩壊と再生≫』


Posted on Sep 17



見出しにある「見田社会学のエッセンス、この一冊に。」というコピーが相応しい一冊です。分量が少ないだけでなく、講演の書き起こしということもあって、大変読みやすいです。読みやすいうえに、これまでの理論的なエッセンスと現代の具体的問題を絡めての話は、とても貴重なものです。

自身の著作『まなざしの地獄』にて考察した1968年の連続殺人事件と、2008年の秋葉原無差別殺人事件との対比を丁寧に見ながら、現代社会の生きづらさとは何か、そしてどう生きていくべきかを社会構造とともに述べています。以下では、書籍に基づいたまとめと感想を記します。

2つの事件の共通点は、青森県からの上京者であり、集団就職と非正規雇用という、それぞれの時代における日本の最底辺の両動力を担ってきたという点にあります。一方で重要な2つの事件の違いは、「まなざしの地獄」と「まなざしの不在の地獄」という点です。加藤智大は自身にリアリティがないからこそ、リア充に憎しみを持っていて、だからこそトラックを降りて一人ひとり自らの手で人を刺殺しました。「これから殺人に行く」というネットへの書き込みすら相手にしてもらえないという「まなざしの不在の地獄」は、彼に限ったものではなく、リストカットをする少女たちにも存在します。ただ、リストカットは内向的な無差別殺人というだけです。

現代という時代の推移を見ていくと、1945年から60年までが理想の時代、次いで75年までが夢の時代、90年までが虚構の時代、と説明されています。その次、05年までをバーチャルの時代とも呼びますが、根本的には虚構の時代性が深まっているものと見田先生は見做しています。虚構とは、資本主義経済のもとに、常に成長し続ける社会の限界という意味においてです。生物のロジスティクス曲線に合わせて人口の増加率をみると、過渡期、爆発期を経て、現在は安定平衡期に軟着陸したい時期にあります。爆発期の資本主義経済の破綻は、情報化資本主義を貫いたGMの破綻からも読み取ることができ、つまり、成長し続けなければいけない資本主義の限界の時代が現在であるといえます。なぜなら、環境問題が成長し続けることを拒否するからです。

では、現代に生きるためにどうすればいいのか、マクロには社会構造として環境との共存が求められます。それは、どのような生物にも共通の課題です。自然は征服するものという思想からの脱却が求められます。また、爆発期の特色である「常に未来のために今がある」という時代ではなく、「今とは違った未来が来るということを必要としないほど現在が充実している」という、いわば極楽のような世界観がいい状態と言えるでしょう。

ミクロには、生きるリアリティを取り戻す必要があり、その一つは、エリクソンの「mature man need to be needed」の達成が求められます。それは、人間という存在の欲望の構造からも極めて基本的で自明なことだと言えます。三浦展が、若者が旅行ツアーにボランティアを求めると述べているのは、一つの具体的な解であるとも考えられるでしょう。見田先生は『時間の比較社会学』で日々の生活というものは未来にある目標によって充実させることもできるし、現在における他者との交歓によっても充実させることができる、と述べられていますが、その意味では、ボランティアは後者に希望を見出していると捉えることができます。

見田先生は、周囲との関係のリアルが必要とおっしゃっていて、情報を媒介にした関係は現代だけに独特のものとしています。同意する一方、リアルな関係はネットワーク環境上にも構築可能であると感じます。メル友の例では確かに交換可能性があると思いますが、オンラインゲーム上での長年の関係構築等は、決して無視できるものではないと感じています。どこで己が必要とされるかは、出来うる限り自由に考えられるといいと思います。



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